「東部ユーラシア」という用語は、2009年2月に発表した論文 『七世紀後半の「唐・吐蕃戦争」と東部ユーラシア諸国の自立への動き ― 新羅の朝鮮半島統一・突厥の復興・契丹の反乱・渤海の建国との関連性』 (『史窓』第66号,1-22頁,2009年2月)で初めて使用致しました。 歴史論文では最初の使用であると思います。 それ以後も「東部ユーラシア史」に関する幾つかの論文を執筆してきました。 そして、拙稿で「東部ユーラシア」という新概念を提示して以来、 東洋史のみならず日本古代史まで、多くの歴史研究者の方の論文や書籍等にも この用語が使用され、拙稿も多く引用して頂きました。
他の時代でもそうですが、特に隋唐期の外交関係は、地域的に広範な領域が関連するので、そのテーマを扱う際には 「中華帝国」「東アジア」では幾分限定的で狭過ぎると以前より感じていました。 上記の拙稿では、隋唐期の外交関係の舞台をより的確に表す、新しい歴史的概念が必要と感じ、それを「東部ユーラシア」としました。
著書『7世紀後半から8世紀の東部ユーラシアの国際情勢とその推移 ― 唐・吐蕃・突厥の外交関係を中心に ―』(渓水社、2013年12月)では、 「東部ユーラシア」というこの新しい歴史的概念を、6世紀末~10世紀初頭の隋唐帝国期を主たる対象として、 「中華文明圏を中核とし、それと歴史的に密接なつながりを持ち、戦争や外交といった直接的な交渉を継続的に行った周辺諸国家を包含するエリア」 と規定しました。具体的には、中華(隋、唐)、チベット(吐蕃)、北アジア(突厥、ウイグル)、 中央アジアの東部、東北アジア(高句麗、渤海、契丹)、朝鮮半島(新羅、百済)、日本、南方の南詔(雲南)、ベトナム などを含む広範な地域に相当します。
これらの広大な地域は、例えば、ローマ帝国滅亡後の「地中海世界」に似た側面を持ち、政治的な統合が長期的にはなされず、 幾つかの異なる文化圏を内包する「複合文化圏」であるにもかかわらず、巨視的には1つの大きな「世界圏」を形成し、 政治・経済・文化など広範な領域において相互に密接な影響を及ぼし合い、連動しながら動的に発展してきました。 本書では、7世紀後半~8世紀、東部ユーラシア世界の中核であった大唐帝国、西方の強国・吐蕃、北方の雄・突厥の3国の外交関係に焦点をあて、 国際情勢の推移を俯瞰的に捉え論考しました。
詳細は、誠に恐縮ですが著書をご覧頂ければと思います。
出版社:渓水社
発行日:2013年12月10日
定価: 3000円(税別)
ページ: 382ページ
ISBN: ISBN978-4-86327-235-4
※ オンデマンド版(ペーパーバック)
発行日:2019年8月15日
ページ: 396ページ
ISBN-10: 4863274904
ISBN-13: 978-4863274907
書籍情報: 単行本(売切) オンデマンド版(購入可能)
※ 2019年7月にハードカバーの単行本は すべて完売しました。厚く御礼申し上げます。
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まえがき
序 論
註(序論)
第1章 7世紀後半の東部ユーラシア諸国の自立への動き
―「唐・吐蕃戦争」と新羅の朝鮮半島統一・突厥の復興・契丹の反乱・渤海の建国との関連性―
1.1節 唐・吐蕃戦争以前の唐をとりまく国際情勢
1.2節 第一次唐・吐蕃戦争(670年)と唐・新羅戦争の関連性
1.3節 第二次唐・吐蕃戦争と「唐・新羅戦争の終結」及び「突厥の復興」の関連性
1.4節 第三次唐・吐蕃戦争(687~696年3月)
1.5節 第三次唐・吐蕃戦争の周辺諸国への余波と唐の外交政策の転換
まとめ(第1章)
註(第1章)
第2章 8世紀前半の東部ユーラシアの国際情勢―多様な外交関係の形成とその展開―
2.1節 8世紀前半の吐蕃と突厥および唐の外交戦略の概観
2.2節 唐と吐蕃の和睦(神龍会盟・公主降嫁)と唐による突厥包囲作戦:神龍2年(706)~景龍4年(710)
2.3節 唐・突厥戦の展開と終結、その後の唐による吐蕃への集中攻撃:開元2年(714)~開元18年(730)
2.4節 唐と北方連合(突厥・契丹・奚・渤海)との戦争および唐の対吐蕃融和策(開元会盟と赤嶺碑文):開元18~21年〔730~733〕
2.5節 北方情勢の沈静化と西方情勢の悪化:開元22年(734)~開元26年(738)
まとめ(第2章)
註(第2章)
第3章 安史の乱以前の2つの唐・吐蕃会盟:神龍会盟・開元会盟
3.1節 神龍会盟(神龍2年〔706年〕)
3.2節 開元会盟(開元18年~開元21年〔730~733〕)と赤嶺碑文
まとめ(第3章)
註(第3章)
第4章 唐と突厥第二可汗国の和戦
4.1節 キョル・テギン碑文に見られる唐の外交姿勢―玄宗「御製御書」の闕特勤碑文漢文面を中心に―
4.2節 契丹の帰属をめぐる唐と突厥の対立
まとめ(4.2節:突厥第二可汗国の興亡と契丹)
註(第4章)
第5章 安史の乱直前の唐の外征及び対外政策
―751年の3つの大敗に象徴される唐の内政・外政の異常化の様相―
5.1節 700年代~730年代の唐の外交戦略と周辺国家の動向
5.2節 開元末(741年)頃~天寶9載(750年)の外征と内政
5.3節 天寶10載(751)の唐軍の3つの大敗:南詔での大敗、タラス河畔の戦い、契丹での大敗
5.4節 天寶11載(752)~12載(753)の権力闘争:阿布思の乱、王鉷の反逆事件、李林甫への糾弾
まとめ(第5章)
註(第5章)
第6章 東部ユーラシアの大戦としての「安史の乱」における周辺諸国の動向
―ウイグル・吐蕃・于闐・抜汗那・吐火羅・大食・南蛮・契丹・奚・南詔・党項・渤海・新羅・日本―
6.1節 安史の乱が勃発する直前と乱勃発直後の唐の対外政策
6.2節 安史の乱の経過と周辺諸国の寄与―ウイグルを中心に―
6.3節 安史の乱におけるウイグル・吐蕃以外の周辺諸国の動向
6.4節 安史の乱の時の吐蕃の動向(南詔・党項の動向も含む)
まとめ(第6章)
註(第6章)
第7章 安史の乱後の内治のための外交
―徳宗時代の三つの唐・吐蕃会盟(建中会盟・奉天盟書・平涼偽盟)―
7.1節 建中会盟に至るまでの唐を取り巻く国内外の情勢
7.2節 建中会盟とその歴史背景
7.3節 奉天盟書
7.4節 平涼偽盟とその後の国際情勢
7.5節 徳宗時代の3つの唐・吐蕃会盟のまとめ
7.6節 周辺諸国による反乱支援―吐蕃・ウイグルの僕固懐恩支援、ウイグルの朱滔支援、吐蕃と朱泚の取引―
7.7節 安史の乱以前の会盟と以後の会盟の類似点と相違点:開元会盟と建中会盟の比較
7.8節 8世紀の唐・吐蕃会盟全体の総括
7.9節 8世紀の唐の外交事例の後世への影響
まとめ(第7章)
註(第7章)
結 論
あとがき
参考文献および略号
年代対応表(1.670~700年,2.701~730年,3.731~763年,4.770~800年)
ここで、本書で用いる「東部ユーラシア」という概念規定について簡単に説明しておく。 本書では、6世紀末~10世紀初頭の隋唐帝国期を主たる対象として、「中華文明圏を中核とし、それと歴史的に密接なつながりを持ち、 戦争や外交といった直接的な交渉を継続的に行った周辺諸国家を包含するエリア」を「東部ユーラシア」と呼ぶことにする。 即ち、具体的には、中華(唐)、チベット(吐蕃)、北アジア(突厥、ウイグル)、 中央アジアの東部(東トルキスタン=現在の新疆ウイグル自治区=西域)、東北アジア(渤海、契丹)、朝鮮半島(高句麗、新羅、百済)、 日本、南方の南詔(雲南)、ベトナムなどを含む広範な地域を指す。 なお、7世紀~8世紀後半の東部ユーラシアの地理的な範囲については、〔図Φ-1〕~〔図Φ-4〕を参照されたい。
これらの地域を指す地理的な用語としては、これまで東アジアや中央アジアなどといった用語が使われてきた。 しかし、東アジアは中華・朝鮮半島・日本を含む地域ではあるが、チベット・北アジア・東トルキスタン(中央アジア東部)などを含まない。 また、中央アジアは中華・朝鮮半島・日本を含まない。それゆえ、隋唐期の中華文明圏と継続的かつ直接的な交渉を持った、 東アジア・北アジア・チベット・中央アジアなどを包含する広大なエリアに対する地理的用語としては、東部ユーラシアが最も適切であると考える。
これらの広大な地域は、13世紀のモンゴル帝国時代までは、政治的な統合はなされなかった。また、幾つかの異なる文化圏を内包する 「複合文化圏」でもある。にもかかわらず、この東部ユーラシアというエリアは、巨視的には、1つの大きな「世界圏」を形成しており、 歴史的な流れの上においても、古来より中華世界を中心としながら、政治・経済・文化など広範な領域において、相互に密接な影響を及ぼし合い、 諸国家が興亡を繰り返してきた歴史の大舞台である。以下でも見るように、少なくとも隋唐帝国期には、東部ユーラシアの諸国は、 戦争や外交といった直接的な交渉も含めて有機的に結びつき、連動しながら動的に発展していった。
このように、政治的な統合が恒常的になされず、異なる文化圏を幾つか内包するにもかかわらず、巨視的に1つの有機的な統合体として捉えられる 「世界圏」は世界史上に幾つか存在する。例えば、ローマ帝国崩壊後の「地中海世界」などは、そういった巨視的な世界圏の典型例であり、 「東部ユーラシア世界」もまた、それに類似の巨視的な歴史的概念と言える。
この東部ユーラシア世界において、少なくとも7世紀~8世紀の時期は、統一中華王朝である大唐帝国が圧倒的な勢力を有し、 したがって中核としての中華帝国と、それを取り巻く周辺諸国家という構図が、近似的には成立する。特に8世紀中葉の安史の乱以前は、 この非対称性は顕著であるため、本書では、吐蕃・突厥・新羅・契丹・渤海などの唐の近隣諸国を、多くの先行研究と同様に「周辺諸国」と呼ぶことにする。
なお、7世紀~8世紀の東部ユーラシアの周辺諸国のうち、西方のチベット帝国である吐蕃と、北方遊牧帝国である突厥・ウイグルは、 強大な軍事力を背景に、広大な領域を長期にわたって支配した。とりわけ吐蕃は、7世紀後半から既に強国であり、 強盛な時期の大唐帝国に対してもしばしば勝利を収め、唐が構築しつつあった1つの世界秩序に多大な影響を及ぼし、 周辺諸国の唐からの相次ぐ自立にも少なからず寄与した。また、安史の乱(755~763)の後には、弱体化した唐を吐蕃と北方遊牧勢力が圧迫し、 両者との外交関係が中華帝国存亡に関わる重要な鍵にまでなる。
このように、あるいは本書で諸史料に基づいて詳しく示すように、7世紀~8世紀の東部ユーラシア世界では、 大唐帝国、西方の吐蕃、北方遊牧帝国という異なる文化圏の三勢力が、時に非対称ながらそれぞれ渦の中心となり、 他の周辺諸国を巻き込みながら密接に絡み合い、歴史的な展開を見せるのである。
(本書「序論」より抜粋)
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論文(PDF)
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【論文概要】
本稿では、七世紀後半に起こった「唐・吐蕃戦争」と、「新羅による朝鮮半島の統一」「突厥の復興」
「契丹の反乱」「渤海の建国」との関連性について考察した。この時期の唐周辺の国際情勢を概観すると、
671年より新羅が統一戦争を開始し、682年には突厥が復興、696年に契丹が唐に対して反乱を起こし、
698年に渤海が建国するなど、周辺諸国は相次いで唐の支配から脱している。
これと同時期に吐蕃が西域に進出し、唐は、西域の支配権を巡って吐蕃と激戦を繰り広げ、
670年、678年、689年、696年の4度大敗している。この唐の大敗と周辺諸国の自立への動きとの間には
密接な相関が見られ、唐が吐蕃に大敗する度に、周辺諸国は唐からの自立を試みている。
従って、七世紀後半の唐・吐蕃戦争は、中国周辺諸国の自立という観点から重要な歴史的意義を有しており、
この時期、東アジア・中央アジア・北アジアは有機的に連動していたと推測される。
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論文(PDF)
第118回 史学会大会 東洋史部会
2020年11月8日(日) 於 東京大学
第115回 史学会大会 東洋史部会
2017年11月12日(日) 於 東京大学
第112回 史学会大会 東洋史部会
2014年11月9日(日) 於 東京大学
第62回日本チベット学会大会
2014年10月25日(土) 於 苫小牧駒澤大学
日韓古代文化研究会 (第261回定例学習会)
2014年7月6日(日) 於 大阪市立港区民センター
The Third International Seminar of Young Tibetologists (ISYT Kobe 2012)
Kazushi Iwao (Convener)
Kobe City University of Foreign Studies, 3rd-7th, September, 2012.
Information on ISYT
Abstract of ISYT Kobe 2012
Influence of Tang-Tibet Wars in Eastern Eurasia in 7-8th Century
Aigo Suganuma (Kyoto Women’s University, Department of History)
Abstract
The influence of "Tang-Tibet Wars" was investigated in terms of independence of
eastern Eurasia nations and changes of the military system of Tang Dynasty.
There happened a series of Tang -Tibet Wars in the latter half of the seventh century.
In this era, Tibet attempted to govern Western Regions, and Tang Dynasty fiercely
fought against Tibet several times to keep the rule of Western Regions.
However, Tang army suffered crushing defeats against Tibet four times in 670, 678, 689 and 696.
As the historical importance, these wars might influence the independence of
eastern Eurasia nations, "unification of Korean peninsula by Silla Kingdom", "revival of Turk",
"revolt of Khitan" and "founding of a country of Pohai ".
1. Actually, "Tang-Silla war" (671) broke out in the next year of the complete defeat of
Tang army in the first Tang-Tibet war (670).
2. In the next year of the crushing defeat of Tang in the second Tang-Tibet war (677-678),
Turk began to revolt against Tang in 679, and finally achieved the independence in 682.
3. The revived Turk violently attacked Western Turk and destroyed a puppet government controlled
by Tang in 690, the next year of the defeat of Tang in the third Tang-Tibet war (687-689).
4. Just after the complete defeat of Tang army at the final battle (March, 696) of
the Tang-Tibet war (692-696), the revolt of Khitan (May, 696) occurred,
which was considered to give an opportunity for the founding of a country of Pohai (698).
In fact, whenever Tang Dynasty was suffered a crushing defeat at the fight with Tibet,
the surrounding nations were activated and took the opportunity to attempt their
independence from rule of Tang Dynasty.
Thus, the Tang-Tibet Wars in this era would have an important historical meaning for
the independence of nations in East, Central and North Asia from China.
The Tang-Tibet wars also influenced the military system of Tang Dynasty. During the wars,
the mercenary system was frequently taken instead of the fubing (divisional militia)
system, and Jiedushi military governors were set up against Tibet and Turk in the beginning
of eighth century. These changes led to a background of the large revolt of An-shih in 755-763.
第57回日本チベット学会大会
2009年11月7日(土) 於 神戸市外国語大学